「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

負けたら終わり?

中学生の娘たちが夏の大会に挑んでいます。

3年生にとっては最後の大会です。

 

甲子園に代表されるように、

学生のスポーツの大会は殆どがトーナメントです。

 

トーナメントは勝ち抜き戦ですから、

負ければおしまいです。

 

これが最後かも知れないという緊張感の中で、

精一杯のプレーをしてNo.1を決めていく。

 

私もそうした中に関わってきましたし、

子供達を通してそういう世界に今でも関わっています。

 

ですから、その面白さや醍醐味も充分分かっているつもりです。

 

ただ、この「負けたら終わり」というありかたに

最近は少し違和感も感じています。

 

この「終わり」はあくまでも、

その「大会の終わり」でしかなく、

それ以上でもそれ以下でもありません。

 

「人生の終わり」ではないはずです。

 

「後がない」というような緊張感のある状況の中で、

自分達の持てる力を全て発揮できるか。

 

こんな経験は大きな財産になるでしょう。

 

そして結果的に勝つことが出来れば、大きな喜びや達成感も経験できます。

 

こんな中で「勝つ」ということは、確かに称賛されるべきものだとは思います。

 

しかし、一人一人の選手と向き合った場合、

その選手が今まで培った力を出し切れたかどうかが重要ではないでしょうか。

 

「勝ち」を目指すからこそ、自分にできることは今の自分の力を出し切ることになります。

どのような状況の中でも、常に自分のベストを尽くせるようになること。

これこそが大事なことだと思います。

 

しかし「負けたら終わり」という状況にいると、それが少し変わっていってしまいます。

「負けたら終わり」ですから、次のチャンスはありません。

 

「勝つ」ことでしか評価が得られないように誰しも感じ始めてしまいます。

 

大事なことは「勝つ」ことであって、一人一人の力を出し切るかどうかは別のことになってしまいます。

 

力のあるやつだけが勝てる。

何をしても勝てばいい。

 

これは私の感じ方ですが、「勝ち」にとらわれた振る舞いは、時に非常に卑しく感じられます。

 

正しいあり方で「勝ち」を求めることにこそ価値があるのではないか。

もし、正しくないやり方で「勝ち」という結果を得たとしても、そこから成長に繋がるのだろうか。

 

そんなことを感じています。 

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。

 

 

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「楽しもう!」

【今日のご機嫌宣言!】(2018.7.17

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「楽しもう!」。

 

「楽しもう!」と考える。

 

今日は楽しむと決めてしまう。

 

何をするかに関わらず、

とにかく楽しむと決めてしまう。

 

やった結果で楽しいではなく、

やる前に楽しむと決めてしまう。

 

いつもならやることは決めていても、

その時の気分はその時次第でいることが多い。

 

今日は最初から気分も決めておく。

 

自分の決めた通りに楽しい気分で1日過ごそう。

 

自分で自分の過ごし方は決めていく。

 

とにかく今日は楽しむ。

 

自分で決めて自分で楽しむ。

 

今日もごきげんな一日を!!

 

 

安定は不安定!?

人は安定を求めます。

 

身体が一定の状態を保とう(体温を一定に保つ)とする

のと同じように心も安定を求めています。

 

それは自然なことだと思います。

 

しかし、「安定」を「固定」的なものと勘違いしていることも多くあるように思います。

 

「安定」は「固定」とは違うのではないでしょうか。

 

私たちが求めている「安定」とは

他者や周囲との関係性が「安定」することではないかと思います。

 

「固定」は周囲と関係なく固まってしまっているような感じです。

 

当たり前のことですが、周囲は常に変化していきます。

関係性を安定させるためには、

必然的に自分も変化を受け容れていかなければいけません。

 

でも、実際に安定を求めている時、固定的なものを求めてしまうと

変化を拒むようになってきます。

 

人との関係において、安定を固定的なものとしようとすると

結果的に関係性は不安定なものになり、求めていた「安定」は手に入りません。

 

以前に武術家の方のお話を聴く機会がありました。

 

身体の動きについて、

 

「定位」と「定置」は違う

「定位」は身体の部分同士(例えば、肘と腰など)の関係性を定めること

「定置」はどこかに居着いてしまうこと

居着いてしまうと、先はない

 

などということを聴き、妙に納得してしまいました。

 

ここでいう「定位」を「安定」、「定置」を「固定」と置き換えられそうです。

 

「安定」は「変化を受け容れる」こと、つまり、

 

今の「安定」を手放して「不安定」になること

 

を受け容れる先にしか訪れないものではないか。。。

 

「変化」を恐れず、不安定な状況に対しても

躊躇なく一歩を踏み出せる自分でありたい

 

そんなことを改めて思っています。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。


毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「準備することがある!」

【今日のご機嫌宣言!】(2018.7.16

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「準備することがある!」。

 

「準備することがある!」と考える。

 

いつでも準備することがある。

 

結果が出ずに後悔することは

 

もっとちゃんとやっておけばよかった、、、

 

そう、準備が不足していたこと。

 

何をしたらいいかは自分が知っている。

 

ごまかさず、手を抜かず、準備を徹底しよう。

 

準備することに集中しよう。

 

結果への不安で心を乱さずに、

今ここにある自分を整えよう。

 

今のベストを尽くそう。

 

迷いや不安から離れて、今ここを楽しもう。

 

今日もごきげんな一日を!!

 

「成長」とは「意志を持った“変化”」

何もしなくても、全ては変化していく。

自分も、周囲の人や物も。

 

変化することはこの世界の変えようが無い現実、いや、真実と言ってもいいだろう。

 

放っておいても変わっていく。

 

自らの望む方向へと意識を向け、

「変わるんだ」「変えるんだ」

という意志を持った人に訪れる「変化」は

全て「成長」だ。

 

結果の善し悪しではなく、意志を持った変化は全て自らの成長に繋がる。

 

なぜなら、常にその経験から学ぶことが出来るから。

 

意志を持たずにただ変化するのは

「成り行き」

でしかない。

 

「成り行き」は意志を働かしていないので、

「結果」でしか判断できない。

 

たまたま、いいことがあれば「成長した、成功した」。

逆に悪いことがあれば「意味が無い、失敗だ」。

 

これでは経験からの学びは何一つない。

 

自ら自分の人生を切り開いていくための「知恵」は何一つ得られない。

 

「変化」への意志は自分にはあるだろうか。

 

「変わる」ことへの恐れを手放そう。

 

何もしなくても「変化」しか訪れない。

 

ならば、自分の意志で「変わっていこう」。

 

どのような「結果」になろうとも、

 

自分の意志で「変えた」経験があれば、

 

そこからまた自分の意志で「変わっていける」。

 

なりたい自分になるために、変わり続ける自分でありたい。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。

 

 

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「応援しよう!」

【今日のご機嫌宣言!】(2018.7.15

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「応援しよう!」。

 

「応援しよう!」と考える。

 

相手にパワーを与えよう。

 

心のパワーは与えても減ることはない。

 

それどころか、与えれば与えるだけ増えてくる。

 

「応援」はされる側だけでなく

「応援」している方も元気になる。

 

相手にパワーを与えると自分も力が湧いてくる。

 

相手の状況に関わらず、とにかく応援する。

 

理由や条件は必要ない。

 

理屈をこねずにやってみる。

 

やったら感じる何かがある。

 

応援すれば自分が元気になってくる。

 

今日は誰かを応援する日!

 

今日もごきげんな一日を!!

 

「期待」がもたらすもの

「期待」というものは、

相手に対する「自分の勝手な思い込み」。

 

「期待する」というのは、

相手にその「思い込みを押し付ける」こと。

 

自分の期待を通して相手を見るようになってしまうと、

相手本来のありのままの姿が見えなくなってしまう。

 

自分が「期待している」ことと違うことに対して、

私たちはがっかりし、腹を立てたりします。

 

あえて言ってしまえば、こちらが勝手に期待しているわけで、

それは本来相手には関係ないこと。

 

そんな自分の「期待」=「自分の思い込み」によって、

相手を苦しめるだけでなく、

実は自分の心も苦しめています。

 

では「期待」をしなければいいのかというと、、、

 

それは無理なことに思えます。

 

どうしても人間は周囲に対して「期待」を持ってしまいます。

 

「期待」は自然な感情というか、当たり前に起きてくるものです。

 

これをやめようとすると、何か苦しい感じがします。

 

だから「期待」をしないようにする必要はないと思います。

 

ただ、

 

「期待」は「自分の勝手な思い込み」だ

 

ということを思い出すだけでいいと思います。

 

物事がうまく進まない、相手が思うように動いてくれないなどの状況で

自分の心が乱れているのを感じたら、

 

それは「期待」通りのことが起きないことにとらわれて、

自分で心を乱しているのかもしれません。

 

そんな時、このことを思い出せると少し落ち着いた気分になります。

 

こうしたことも、比較的関係の薄い他人に対しては出来るのに、

身近な関係の人(例えば、家族など)に対しては、

なかなかうまくできなかったりします。

 

他人に対してはできるのに、身近な人に対してできないから全然ダメだ

 

なんて思う必要はありません。

 

関係が近いほど、こういうことは難しいです。

 

身近な関係だからこそ、相手は自分のことを「わかってくれている」と

それこそ無意識に期待してしまいます。

 

だから、自分の期待と違っている言動をされると心が乱れます。

 

「絆」という漢字。

 

これは「きずな」という読み方のほかに「ほだし」という読み方があります。

 

「ほだし」とは、馬の足をつなぎ止める縄からきた言葉で、

 

そこから転じて「手枷、足枷」や

 

「人の心や行動の自由を縛るもの」

 

という意味をもった言葉です。

 

「きずな」が強ければ強い程

「ほだし」も強く感じてしまう。

  

何とも矛盾したことなのですが、

これが私たち人間なのかもしれません。

 

大事に思えばこそ、それとは裏腹に、苛立ちもより感じてしまう。

 

それが普通なことかもしれません。 

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。