「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「今この瞬間は二度とない」

【今日のご機嫌宣言!】(2019.4.15

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「今この瞬間は二度とない」。

 

「今この瞬間は二度とない」と考える。

 

過ぎ去ったことに囚われて

「今」の質を落としていないか?

 

先のことを考え過ぎて、

「今」の質を落としていないか?

 

自分に出来ることは

「今、ここ」にしかない。

 

明日は来る、、、恐らく、その通り。

 

でも、「今」は二度と訪れない。

 

「今」と同じ「今」は二度とない。

 

「今この瞬間は二度とない」と考える。

 

「今」を大事にしよう。

 

「今」に全力を傾けよう。

 

そんな気持ちになってくる。

 

「今」を思いっきり生き切ろう!

 

今日もごきげんな一日を!!

 

「やさしい」ということについて

【「やさしい」ということについて】

 

「やさしい」を漢字で書くと、どうなりますか?

 

「優しい」が頭に浮かぶ方が多いのではないでしょうか。

 

この「優」の字は

 

憂えている人の側に佇む(佇む)

 

つまり、

 

悲しんでいる人の側に寄り添ってあげる

 

という優しさを表しています。

 

一方、この時は「優れている」の意味もありますね。

立場が上だから「優しくなれる」ということもあるのかもしれません。

 

立場が上かどうかは別としても、

自分に余裕がないと他人に優しくなれない

ということも実際にはあります。

 

さて「やさしい」を他の漢字で書くこともできます。

 

「易しい」です。

 

こちらの「易しい」は

 

わかりやすい、簡単、複雑でない

 

といった意味合いの「やさしい」です。

 

「平易」なんて言葉に使われる字ですし、

他にも「簡易」なんてのもあります。

 

わかりやすい、簡単という意味では

いいイメージでとらえられがちですが、

 

「安易」

 

なんて言葉になると少し変わってきます。

 

「安易な結論」

 

とは、よく考えられてないことを言いますね。

 

以前、辞書で調べたことがあるのですが

 

「易」という字には

 

「あなどる」という読み方もあったように記憶しています。

 

普通は「侮る」と書かれる「あなどる」です。

 

相手を見下したり、軽んじることですね。

 

実は「易しい」ということは、

その裏に「相手に対する侮り」があることがあります。

 

易しい言葉使いで丁寧に話をしてくれているのに

何だかこちらを見下しているように感じることなどありませんか。

 

「優しい」は、寄り添うという点では同等の立ち位置になりますが

「易しい」は、上から下に対して、という感覚でしかないようです。

 

人に対する時に、どちらの「やさしさ」なのか?

どちらの「やさしさ」が相手の為になるものなのか?

 

年老いた両親と関わりながら、そんなことを考えていました。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。


では、また。

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「洗い出す」

【今日のご機嫌宣言!】(2019.4.14

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「洗い出す」。

 

「洗い出す」と考える。

 

色んなことが起きてくる。

 

全てが自分に都合の良いことばかりではない。

 

起きる出来事すべてに良い意味を見つけるのは難しい。

 

いやなものはいやだし、嫌いなものは嫌い。

 

無理に意味づけを変えようとしなくていい。

 

嫌なことを心の中まで持ち込まない。

 

入ってきたら、洗い出す。

 

心の中に溜めておかない。

 

いつも心はピッカピカ!

 

今日もごきげんな一日を!!

全ては自分

【全ては自分】

 

私たちの行動には全て目的がある。

 

こんなことが言われます。

 

その目的は突き詰めていくと

 

「感情を満たすこと」

 

だとも言われます。

 

例えば、お金を稼ぐ目的は、、、

 

いい暮らしをするため

 

とも言えますが、もう少し深く考えると

 

いい暮らしをすることで「不安をなくしたい」

=安心という感情を満たしたい

 

かもしれないし、

 

いい暮らしをすることで「満足感を感じたい」

=人より上だという優越感を満たしたい

 

のかもしれません。

 

その行動の目的を掘り下げていくと、何らかの

 

「感情を満たすこと」

 

が本来の目的として浮かび上がってきます。

 

だとすると、私たちの抱える問題や悩みは

 

「満たしたい感情が満たされない」

 

ということだとも言えます。

 

これが「不満」ということかもしれません。

 

この「感情を満たしたい」ということを理解していないと

問題の解決が的外れになってしまいます。

 

表面的に解決につながる行動が取られて

具体的な成果が出たり、報酬が得られたとしても

本当に求めている感情が満たされない限り

その問題は解決しません。

 

あれが欲しい、これが欲しいと駄々をこねる子どもに

全てを買い与えても、何も解決しないようなものです。

 

その子供が求めているものは親からの愛情であり

それが感じられる何かでない限り、

結局、問題は形を変えながら発生し続けます。

 

欲しいモノが手に入っても、

欲しい気持ちが感じられないとダメなのです。

 

これは大人でも同じです。

 

さて、満たしたいものが

「感情」や「気持ち」であるとすると

もう一つの大事なことに気づきます。

 

自分の「感情」や「気持ち」を

他人から満たされることに慣れてしまうと

 

誰かに依存した人間になってしまう

 

ということです。

 

自分で自分の感情を満たすことができないので

 

うまくいかないことを全て他人の所為にします。

 

この他人とは、具体的な人であるだけでなく

「会社」「国」「社会」などもそうです。

 

文句を言ったり注文をつけるばかりで

自分では何もせず、

他人が何かしてくれること

を望んでいるだけです。

 

これではいつまでたっても

 

自分が望んでいること

 

は起きようがありません。

 

自分の人生を全て偶然に委ねてしまっているようなものです。

 

望むものを手にいれるために

 

自分で行動を起こす

 

ことは自分で決められます。

 

やはり、自分の問題も悩みも、

全て自分自身がその中心にあります。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。


では、また。

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「No Excuse !」

【今日のご機嫌宣言!】(2019.4.13

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「No Excuse !」。

 

No Excuse !」と考える。

 

全てのことはジブンゴト。

 

そう「自分事」。

 

誰の所為とか、何かの所為とか、社会の所為とか関係ない。

 

何があっても自分の人生どうするかは自分の責任。

 

何が起きても自分の人生どうするかは自分の責任。

 

条件がどうとか関係ない。

 

今ある状況が与えられた全て。

 

批判や批評をする前に、「自分だったらどうする?」

 

それを受けて「自分ならどうする?」

 

No Excuxe !」=言い訳なし!

 

全ては自分で決めている!!

 

さっぱり、吹っ切れた感じ!

 

今日もごきげんな一日を!!

行為を咎める前に、好意を受け取る

【行為を咎める前に、好意を受け取る】

 

今日実家での出来事です。

 

父親が出かけた帰りに、何かを買ってきました。

 

「昼、作るのもしんどそうだったから、

 おにぎり買って来た」

 

そう言いながら袋をテーブルに置きました。

 

それを聞いた母の第1声は、

 

「なんで、そんなもの買ってくるの!?」

 

でした。

 

「お米はいっぱいあるし、ご飯はあったのに、、、」

「どうせなら、家になかったパンでも買って来てくれたらいいのに、、」

 

さて、このあとどうなったかと言うと、

特に何も起こりませんでした。

 

我が家ではいつものことなので、

父親が怒り出したりすることもなく、

かと言って謝るわけでもなく、

なんとなくそれだけで終わりです。

 

しかし、一般的にはこんな場合、

お互いに嫌な気持ちになることが多いでしょう。

 

言われた方は頭ごなしに自分の行為を否定されて

気分が良いわけはありません。

 

しかし、言う方もそれなりの理屈はあります。

頼みもしていないのに、勝手に余計なことをされた気分です。

 

何かを相手がしてくれた時、

それが自分の意に沿ったことでない場合、

 

「そんなことしなくていいのに、、、」

 

なんて気持ちになります。

 

「そんなことしなくていいのに、、、」

「どうせなら、こうしてくれたらいいのに、、、」

「気が利かないなあ、、、」

 

なんて思ったりしています。

 

「行為」「行動」は全てを気持ちよく受け取ることは難しいです。

自分が好きでもないことは、嫌なものです。

自分の思いと違うことは、認めにくいものです。

 

だから、その点を指摘してしまいがちです。

 

「こうしてくれたらよかったのに、、、」

「こんなこと頼んでいません」

「どうして勝手なことするんだ、、、」

 

こんな言葉を相手にぶつけてしまうかもしれません。

 

しかし、こんな言葉をぶつけて相手がその後良くなることがあるでしょうか?

 

私の経験上は、あまりそれはないように思えます。

 

また、同じことが繰り返されます。

 

そうして関係が悪くなっていきます。

 

もし、そんなことに気づいたら、少しだけ捉え方を変えて

自分の意識や言動を少し変えてみませんか。

 

相手の「行為」「行動」は認められないかもしれません。

しかし、相手の「気持ち」「好意」は素直に受け取るでことはできます。

 

そのことに関しては、感謝の気持ちで応えることはできるはずです。

 

「ありがとう。その気持ちは本当に嬉しいよ」

「これも嬉しいけど、~のようにしてもらえるのも嬉しいな」

 

相手の気持ちを素直に受け取った上で、

こんな言い方で自分の要望を伝えることもできます。

 

人は「行動」に制約があることは受け入れられます。

だから「行動」自体を咎められることは、実はそれほど反発されません。

 

しかし「気持ち」や「考え」を否定されることには抵抗が強いです。

我慢して受け入れているように見えても、納得し切れていないものです。

 

何かを注意して、相手が反感を抱くのは

 

「行動」に対する注意に対してではなく

「気持ち」や「考え」に対して無理解な態度に反発している

 

からです。

 

まずは、相手の「気持ち」は認めた上で、

「行動」に対する評価は伝える。

 

これも相手との良好な関係を築く上での大事なポイントです。

 

さて、その後の両親ですが、

 

昼食として用意したおかずはありましたが、

母がおにぎりに手を伸ばしました。

 

「ありがとう。いただきます」

 

「どういたしまして」

 

ちょっと微笑ましい老父婦の日常でした。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。


では、また。

 

毎朝の思考習慣:今日のご機嫌宣言!「また始める」

【今日のご機嫌宣言!】(2019.4.12

 

自分の機嫌は自分でとる!!

今日は「また始める」。

 

「また始める」と考える。

 

継続は力なり、、、確かにその通り。

 

では、

継続しなかったら、価値がない?

 

そんなことはない!

 

途中がどうであろうと、最後にたどりつけさえすればいい。

 

途切れたら、また始める。

 

それだけのこと。

 

何があっても、また次に進むだけ。

 

苦しかったら、途切れてもいい。

 

そして、また、始めればいい。

 

止まったら、また、動く。

 

動きやすい自分でいるだけ。

 

いつでも諦めるのは「自分」。

 

諦めないのも「自分」。

 

どっちの「自分」になりたい?

 

どちらになるかは、、、自分で決めよう!

 

今日もごきげんな一日を!!