「期待」ということ
「期待」というものは、
相手に対する「自分の勝手な思い込み」。
「期待する」というのは、
相手にその「思い込みを押し付ける」こと。
自分の期待を通して相手を見るようになってしまうと、
相手本来のありのままの姿が見えなくなってしまう。
自分が「期待している」ことと違うことに対して、
私たちはがっかりし、腹を立てたりします。
あえて言ってしまえば、こちらが勝手に期待しているわけで、
それは本来相手には関係ないこと。
そんな自分の「期待」=「自分の思い込み」によって、
相手を苦しめるだけでなく、
実は自分の心も苦しめています。
では「期待」をしなければいいのかというと、、、
それは無理なことに思えます。
どうしても人間は周囲に対して「期待」を持ってしまいます。
「期待」は自然な感情というか、当たり前に起きてくるものです。
これをやめようとすると、何か苦しい感じがします。
だから「期待」をしないようにする必要はないと思います。
ただ、
「期待」は「自分の勝手な思い込み」だ
ということを思い出すだけでいいと思います。
物事がうまく進まない、相手が思うように動いてくれないなどの状況で
自分の心が乱れているのを感じたら、
それは「期待」通りのことが起きないことにとらわれて、
自分で心を乱しているのかもしれません。
そんな時、このことを思い出せると少し落ち着いた気分になります。
こうしたことも、比較的関係の薄い他人に対しては出来るのに、
身近な関係の人(例えば、家族など)に対しては、
なかなかうまくできなかったりします。
他人に対してはできるのに、身近な人に対してできないから全然ダメだ
なんて思う必要はありません。
関係が近いほど、こういうことは難しいです。
身近な関係だからこそ、相手は自分のことを「わかってくれている」と
それこそ無意識に期待してしまいます。
だから、自分の期待と違っている言動をされると心が乱れます。
「絆」という漢字。
これは「きずな」という読み方のほかに「ほだし」という読み方があります。
「ほだし」とは、馬の足をつなぎ止める縄からきた言葉で、
そこから転じて「手枷、足枷」や
「人の心や行動の自由を縛るもの」
という意味をもった言葉です。
「きずな」が強ければ強い程
「ほだし」も強く感じてしまう。
何とも矛盾したことなのですが、
これが私たち人間なのかもしれません。
大事に思えばこそ、それとは裏腹に、苛立ちもより感じてしまう。
それが普通なことかもしれません。
まだまだな自分を受け入れて、
その上でどうなりたいかを忘れずに進んでいきたいと思います。
今日もここまでお読みいただきありがとうございます。
では、また。