「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

「危機意識」ではなく「当事者意識」?

【「危機意識」ではなく「当事者意識」?】

 

昨日「危機意識」について

 

人が本気で動いていないとしたら、

それは「危機意識」の欠如が問題の本質ではない

 

のではないか、ということを書きました。

 

今やるべきことに真剣に向き合い、

自分の全能力をそのことに注いでいない

 

という状態にあるとすれば、

 

向き合えない何らかの理由があるもかもしれません。

 

その理由や原因を取り除くことで、

人は自然と目の前のやるべきことに向き合えたりします。

 

さて、それはそれとしながら、

もしその当人に欠けているものがあるとすれば

 

「危機意識」ではなく「当事者意識」

 

かもしれません、、、ということを今日は書こうと考えていました。

 

しかし、いざ書こうと思ってみたら、色々と分からなくなってきました。

 

「当事者意識」ってなんなのでしょう?

 

そもそも「当事者」だろうが「危機」だろうが

「意識」が問題の本質なのだろうか?

 

こういう時は、すぐに答えに飛びつくのではなく

整理してみることが有効です。

 

まず、実際に起きていることは何か?です。

 

起きている「現象」は一体なんでしょうか?

どんな「現象」を問題と考えているのでしょうか?

 

おそらく、ほぼ共通しているであろうことは

 

(仕事を)最後までやりきっていない

 

ということです。

 

「結果が出る」というより、

「結果が出るまでやり続ける」

 

途中で諦めずに「最後までやり続ける」

 

ということが出来ていない状況があるのだと思います。

 

最初のうちは、

結果を出すためにこちらからアドバイスをしたりします。

 

いつでも相談に乗るよ、なんてことを言うかもしれません。

 

しかし、自分のアドバイスを取り入れる風でもなく

困っているはずなのに相談にもこない、、、

 

こんなことが起きます。

少しイライラしてきます。

 

別のアドバイスをしたり、

言い方を変えてみたり、

自分なりに相手に対する接し方を変えてみたりします。

 

それでも一向に相手は変わらない、、、

 

ますますイライラしてきます。

 

こちらがせっかく色々気にして言っているのに、受け取る気配がない。

しばらくほっておこう、もう知らない、、、なんてなるかもしれません。

 

まあ、大抵、この段階で

「意識が低い」「当事者意識がない」などと

言って相手を責めだします。

 

確かに「意識が低い」「当事者意識がない」という側面もあるかもしれません。

 

でも、それ以外の要因は本当にないのでしょうか?

 

本当はもっと別のことをした方がいいと思っているのに

「これをやれ」と決めつけられていて納得していない、、、

 

そもそも、これをやる意味が全く分からない、、、

 

作業として自分はやるだけの力しかないのに、

自分で考えて工夫しろなんて言われても所詮無理だ、、、

 

こんなこともあるかもしれません。

 

自分でこうして書きながら、改めて思うことがあります。

 

私たちは自分の想い通りにならない相手に対して

その要因を「意識」みたいなものに結びつけて結論づけやすい

 

ということです。

ちょっと横道に逸れました。このことはまた別の機会に取り上げます。

 

「意識」を他人から指摘されて変える、ことはあるでしょうか?

現実的にはこれは殆どない、と思います。

 

他人から自分の「意識の低さ」「意識の問題点」などを指摘されて

素直に自分の意識を変えられるでしょうか?

 

おそらく反発を感じることはあっても、

それをきっかけに素直に変える

ということはないはずです。

 

にも関わらず、自分は相手に対して

 

「意識の低さ」

 

を指摘しているとしたら、、、、

 

無理なやり方を押し通そうとしているだけではないでしょうか?

 

まず「意識」を変えることが必要なのではなく、

現実的には「行動」を変えるだけのことです。

 

その「行動」の必要性がしっかりとわかっているのか?

 

これは相手にとって、それが本当に価値のあること、大事なことだ

と認識されているかということです。

 

自分では大事だし価値があると思っていても

相手は同じように捉えていないかもしれません。

 

また、もし、それがわかっているとしても「行動」できないならば、

「行動」を妨げる「何か」があるはずです。

 

その「何か」に気づき、それを「行動」の妨げにならないようにすれば

「行動」は自然と起きてきます。

 

また別の観点からは、「当事者」というけれど

 

今まで本当に「当事者」として扱ってきたのだろうか

 

ということもあります。

 

全てこちらの指示命令の通り行動させ、

相手が独自で考えたり判断したことを受け入れなかったり

結果が出ないことで相手を必要以上に責めることをしていないだろうか?

 

もし、こんなことをされている相手としては

 

自分がこの仕事の全責任を任された「当事者」だ

 

と感じられるでしょうか?

 

口では今回はあなたが当事者だと言われても

今まで経験してきた言動からは簡単に信じられないことも多々あります。

 

こうして書きながら、今更のように思うのは

 

では、自分はこの状況の「当事者」として振舞っているだろうか

 

ということです。

 

「相手の意識の低さ」「相手の当事者意識の欠如」を理由に

自分自身が最後までやり通すことを諦めていないだろうか、、、

 

結局、自分は本当にやりきっているのだろうか、という

自分の問題に戻ってきました。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。