「共感」の元にある「体感」
【「共感」の元にある「体感」】
私事で恐縮ですが、
田舎の叔父が先日亡くなりました。
そのしばらく前に入院中の叔父を見舞いました。
意識はなく、自発呼吸もできないため
チューブに繋がれていました。
その状態のまま、最後を迎えました。
さて、そんなことが最近あった所為か、
ニュースで大きな事故が起きたり、
人が亡くなった話を聴くと
今まで以上に、悲しい気持ちを強く感じるというか、、
何か感じ方が違います。
残されたご家族や知り合いの方々が悲しんでいらっしゃるだろうな、、
などと、つい、自分の気持ちと重ね合わせて想像してしまいます。
もう会えないんだ、、と
叔父のことを思う時の寂しさを思い出します。
おそらく、叔父のことがあった所為で
今まで以上に、感じてしまいます。
「共感」という言葉をよく目にします。
私もこの言葉を使うことが多いです。
「共感」は「理解」とは違うと思っています。
「共感」=「感じる」のは「身体」です。
「感覚的」なものは「身体的」なものです。
「身体」は現実に形があり、触れるものです。
「理解」=「わかる」のは「頭」です。
「理屈的」なものは「頭」の中だけで完結できます。
ということは、バーチャルなもの、仮想現実みたいなものとも言えます。
本当の「共感」とは、
それに通じるような「体感」がないと得られない気がします。
「頭」だけで、何かを知り、理解したつもりであっても
「共感」ではないです。
逆に考えると、
他人に「共感」してもらえるものは
少なくとも自分の体験をベースに体感したことだと思います。
自分では体験したこともなく、
ただ知っているだけのことを
どんなに適切な言葉で語ったとしても
「共感」を得られることはないように思います。
人に何かを伝えることを仕事としている私にとって、
このことは忘れてはいけないことだと思っています。
きちんと人に伝えようとするなら
自分の実践とそれに伴う体感を
大事にすることから始めよう。
そのことを忘れずに活動していきます。
今日もここまでお読みいただきありがとうございます。
では、また。