「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

結局分かり合えない、だからこそ、、、

【結局分かり合えない、だからこそ、、、】

 

どんなにわかってあげようと思っても

相手の本当の気持ちやどのようなことを考えているか

を確実にわかることはできません。

 

わかった!と思っても

微妙に違っていたり、

勝手な思い込みだったりするものです。

 

ということは、

 

自分の気持ちも本当にわかってもらえることも

 

まずあり得ないと言えます。

 

どんなに気持ちを込めて

どんなに言葉を尽くしても

 

伝わらない

理解されない

 

ということはあります。

 

相手によっても変わります。

 

共感しやすい人

なかなか共感できない人

 

は確かにいます。

 

残念ながら全ての人に同じようにはなれません。

 

そういう意味では

 

コミュニケーションには限界がある

 

とも言えるでしょう。

 

「言葉だけで100%わかりあえるものではないから

 もっと相手のことを思ってあげないといけない」

 

とある時言われました。

 

この言葉だけ見れば、その通りだと思います。

 

その時の自分は素直にその言葉を受け取れませんでした。

 

それは、私がひねくれているからかもしれません。

 

しかし、その時と同じシチュエーションであれば

私はこの言葉をやはり素直に受け取れないでしょう。

 

そのシチュエーションとは

 

「言葉だけでわかりあうのは難しいから

 もっと相手のことを思ってあげないといけない」

「だから、私が言ってない私の考えも、もっと察してもらわなければ困る」

 

このようなことでした。

 

言いたいことはわかります。

 

しかし、どうしても違和感が拭えませんでした。

 

そう言っている方が、そのことを言えば言うほど

 

「自分のことを理解しろ」

 

と言っているだけで、

 

「こちらのことを理解しよう」

 

とは感じられないのです。

 

「相手のことを察しろ」

 

と言うのであれば、自分自身が

 

「相手のことを察しよう」

 

としているはずです。

 

その方と対峙している私が

 

どのような気持ちでいるか

どのようなことを感じているか

どのようなことを考えているか

 

を察しようとしているようには思えませんでした。

 

それが全く感じられません。

 

言葉はもっともらしく聞こえますが

正直に言うと、全く自分には響いてきませんでした。

 

更に、わかり合うのが難しいからこそ

 

可能な限り、言葉を尽くす

自分からの発信は決してやめない

大事なことは何度でも言う

 

などが、大事なことではないでしょうか。

 

一度言ったはずだ

何度も言わせるな

わからない奴には話すのが無駄だ

 

という態度は、わかりあおうとすることを

 

自ら放棄しているだけ

 

にしか思えませんでした。

 

さて、こうしたことをここで書いているだけでは

 

私も結局同じことをしているだけです。

 

ですので、その方には

そうした自分の考え方をはっきりとお伝えしました。

 

昨日も書きましたが、

 

「批評眼は持つべし、されど批判的態度は慎むべし。

 すべからく他を批判するの眼を自己に返照しきって

 創作実現へと踏み出すべし」

(森信三)

 

簡単に言えば、

 

他人の振り見て、我が振り直せ

 

ですね。

 

今日もお読みいただいてありがとうございます。

 

では、また明日。