「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

本当に認められたいものは、、、

【本当に認められたいものは、、、】

 

人は他人から認められたい存在です。

 

「認めてほしい」のは

 

自分という「存在」そのもの

 

です。

 

「ほめる」ということは

「行動」や「行為」に対してなされるもの。

 

自分の「行動」や「行為」に

相手が「ほめる」という反応を示す。

 

こうして相手が反応してくれることが

 

自分の「存在」を認めてくれている

 

と感じられます。

 

人は自分の「存在」を認められたいです。

自分の「存在」を感じられることを求めます。

 

そのために、

自分の「存在」が認められたと感じられる

「行動」や「行為」を繰り返ししてしまいます。

 

「ほめられる」ことで、同じことを繰り返すようになる。

これがほめて育てよう、とする時の狙いでしょう。

 

さて、「叱る」や「怒る」も

自分の「行動」や「行為」に相手が反応しています。

 

この点では、「ほめる」と同じことです。

(「叱る」と「怒る」は違うという話はここでは触れません)

 

自分の行為や行動に反応してくれることは

それ自体は自分の存在を認められているように感じられます。

 

つまり、叱られたり怒られたりする度に

自分の存在は認められていると感じられます。

 

自分の存在を他人からの反応を通してしか感じられないと

他人からの反応を求め続けます。

 

つまり、自分の存在が認められていると感じるために

 

「ほめられる」だけでなく

「叱られる」「怒られる」ような「行動」や「行為」も

 

繰り返しするようになります。

 

問題行動を直そうとして「叱る」のも「怒る」のも

実は効果的ではないかもしれません。

 

相手の行為や行動を「叱る」「怒る」「ほめる」ということだけを

繰り返している場合、

 

いつまでたっても、相手はその反応を求めてしまいます。

 

何故なら自分の存在を認められたいから。

「叱られる」「怒られる」「ほめられる」

ということを求めます。

 

結局、これは「依存(心)」です。

 

「ほめる」「叱る」「怒る」ことを通して

相手を育てよう

相手に成長してもらおう

自立した人間になって欲しい

 

と思っていたはずなのに、結果は全く逆になっています。

 

全ては、

 

「『存在』そのものを認める」

 

という視点が欠けているために起こります。

 

行為や行動の良し悪しを評価する前に

相手の「存在」そのものを認めているか。

 

人に関わる時に、心していることです。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

  

では、また。