「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

「こだわり」なのか「とらわれ」なのか

【「こだわり」なのか「とらわれ」なのか】

 

私は研修などで、

 

研修に期待すること、不安に思うこと

 

というのを受講者の方に書き出してもらいます。

 

すると、いつも出てくる「不安なこと」があります。

 

それは、、、

 

「出来るだろうか」

 

という不安です。

 

研修で学んだことが実践できるだろうか、、、

うまくやれるだろうか、、、

何一つ身につかなかかったらどうしよう、、、

 

こんなことを感じている方が必ずいます。

 

なんて、書きながら私自身もその感じ方はよくわかります。

 

なぜなら、私自身も同じようなことを感じたりするからです。

 

うまく伝えられるだろうか、、、

理解してもらえるだろうか、、、

喜んでもらえるだろうか、、、

 

こんな不安は正直あるからです。

 

さて、この不安はどこから生じてくるのでしょうか?

 

それは「結果」に意識が向いているから出てくるものです。

 

これらの「不安」は詰まる所

 

「結果が出せるだろうか」

 

という不安です。

 

それだけ「結果」に対する意識が強いわけです。

 

ところで、この「結果に対する意識」は

 

「結果にこだわっている」のでしょうか?

それとも

「結果にとらわれている」のでしょうか?

 

おそらく「とらわれている」状態だと私は思っています。

 

「こだわる」と「とらわれる」は似た言葉です。

 

しかし、私は明確にこの二つは違うものと考えています。

 

それは「どちらが主体なのか」の違いだと思っています。

 

「こだわる」は自分が主体的な意識です。

「こだわる」のは自分がしていることです。

 

一方、「とらわれる」は受動的な意識です。

自分の意思とは関係なく

相手(もしくは対象となるもの)に「とらえられている」状態だと私は考えています。

 

つまり、自分の主体的な行動ではないです。

 

何より自分が「結果」を出したいと強く望んでいるからこそ、

「結果」に「こだわる」わけです。

 

一方、「結果」を出したくないわけではないですが、

「結果」を出すことが求められているという意識が強く

自ら「結果を出す」ではなく、「出さなければいけない」と感じている時

「結果」に「とらわれている」状態になっているように思えます。

 

自分が本気で「結果を出そう」というより、

自分はそこまで本気ではないけど「そうしなければいけない」

と感じているようなものです。

 

だから、「結果が出ないこと」を気にします。

不安に感じてしまいます。

 

自分が主体ではないです。

自分以外のものに支配されている感じです。

 

「こだわっている」ならば「結果が出ない」ことを気にするのではなく、

「結果が出る」までやり続けられます。諦めません。

 

さて、自分は「結果」に

 

こだわっているのか?

とらわれているのか?

 

心の乱れを感じた時ほど、そのことを自分に問いかけていこう。

 

そんなことを改めて感じています。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

  

では、また。