「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

理屈は後からしか出来上がらない

私は企業研修の講師の仕事をしています。

一般的に、講師とは人にものを教える仕事ですよね。

 

何を教えるかという中身=コンテンツはそれぞれ違いますが、

結局教えているのは「理屈」です。

 

「知識」「テクニック」「ノウハウ」等々、色々な呼び方はありますが、

結局、研修などで教えるのは、その「理屈」です。

 

考えてみれば、私たちは今ままで色んな「理屈」を教えられてきました。

 

「理屈」は「頭」で理解するものです。

 

つまり「頭」を使うことを鍛えられています。

 

これは勉強ができるとかそういうことだけでなく、

常に、頭で「理屈」を考えることを求められ、

鍛えられてきています。

 

だから、自然と無意識に私たちは「理屈」を求めていますし

それに応えるように「理屈」を伝えよう、教えようとします。

 

でも、順番が逆かもしれません。

 

「理屈」は「現実」を観察する中から出てきた「仮説」でしかありません。

たまたま多くのケースで当てはまるものが「真実」「正解」のように扱われますが

実際には「仮説」でしかないのではないでしょうか。

 

「理屈」が「現実」を作り出すのではなく

「現実」を自分に都合よく説明するための「理屈」が後から出てくる。

 

「理屈」だけを先に「頭」に入れても

それで「現実」に何かが変わることはありません。

 

「現実」は「理屈」通りに動いているのではなく

「現実」を説明する都合のいい「理屈」があるだけです。

 

主従関係を逆にしてはいけないと思うのです。

主は「現実」で、従は「理屈」。

 

現実に今ここにあるのは自分の「身体」

「頭」で考えていることは、実際に今目の前にはないこと。

考えているだけでは何も現実は変わらない。

 

実践を伴わない「理屈」は無意味です。

「頭」を先に使うより、もっと「身体」を使ってみる。

 

頭でっかちの評論家や批評家ばかり増えても、何も現実は変わりません。

 

自分は、評論家や批評家になりたいわけではありません。

 

常に「実践者」でありたい。

 

何かを学ぶのも常に「実践」を前提にしていきます。

何かを伝えるのも「実践」を土台にして伝えます。

 

現実から遊離した理論だけの整合性とは一線を画していこうと思います。

 

大好きな森信三先生の言葉を思い出しました。

 

批評眼は持つべし。

されど批評的態度は慎むべし。

すべからく他を批判するの眼を

自己に返照しきって創作実現へと踏み出すべし。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

 

では、また。