「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

「原因」が先か、それとも「目的」が先か

【「原因」が先か、それとも「目的」が先か】

 

フロイトユングと並ぶ心理学の3大巨頭と称されるのが

 

ルフレッド・アドラー

 

です。

 

アドラーの心理学は最近日本では「嫌われる勇気」などにより

知られることも多くなったようですが、

フロイトユングと比べると、知名度・認知度は今ひとつのように感じます。

 

なんて言っている私もアドラーについて知ったのはほんの数年前です。

正確には覚えていませんが、まだ10年は経っていないはずです。

 

アドラーの心理学の特徴の一つは

 

「目的論」

 

であることです。

 

私たちの多くは「原因論」に慣れています。

 

原因論」とは、何らかの「原因」があって、

その結果として現在の自分がある

 

というものです。

 

例えば、

 

原因:親に厳しく育てられたので

結果:真面目な性格になった

 

などと考えられます。

 

特に変ではないですね。

しかし、よくよく考えてみるとこれはおかしいです。

 

基本、原因と結果は1対1の関係になるはずです。

同じ原因からは同じ結果が生じる、ということです。

しかし、現実は違います。

 

親に厳しく育てられた人は全て真面目な性格になっているでしょうか?

そんなことは決してありません。

 

同じ家庭で同じ両親に育てられた兄弟姉妹ですら、性格は違います。

 

人間に関して「原因論」で一律に考えることは無理があります。

 

人間を「原因論」で考えてしまうと

 

「人間は過去に縛られ、変化することのできないか弱い存在でしかない」

 

ということになります。

 

今の自分は「過去」の結果です。

「過去」は変えられません。ということは

もう自分を変えようがないのです。

 

ちょっと絶望的な気持ちになってしまいます。

 

仕事で関わる方々の中に、中々変われない方がいます。

そうした方々は一様にこの原因論的な考えに取り憑かれています。

 

ここが手放せない限り、実は変わるのは難しいです。

 

さて、アドラーの唱える「目的論」は

 

私たちは何らかの「目的」があって、

現在の自分を創り出している

 

とするものです。

 

この「目的論」は少し理解しにくいです。

 

自分の性格が嫌いでそんな自分を変えようと思っているとして

 

その自分の性格は自分が何らかの目的で創り出した

 

なんて言われても、

 

そんなことはない!!

 

と反発するでしょう。

 

それでも今の自分は自分の何らかの「目的」のために創り出されているのです。

 

今の自分に納得がいっていないとすれば、それは

 

「目的」に適ったことをしていない

 

つまり、

 

「目的」のためにしていることが、必ずしも有効なことではない

 

ということです。

 

何で、そんなことが起こるかというと

 

自分の「目的」が何なのか

 

を無自覚でいることが挙げられます。

 

本来の「目的」を明確にし、

その「目的」から現状を見直すと

今自分がしていたこととは違うものが見つかることがよくあります。

 

そもそも原因論的な考え方を無意識にしてしまい、

「目的」ということに対しての意識が低いと

つい行動の「目的」は何かということまで考えていません。

 

だから、こうした「目的」と「手段」のミスマッチが起こります。

 

「目的論」はもっと深い考え方ですが、今日はこれくらいにします。

 

私はこの目的論の考え方に出会い、
その観点から自分を見直し

また人に対してもその観点から向き合うことをしてから

多くの変化を経験してきました。

 

自分自身が変わることができただけでなく

多くの方が変化していくのを見ることができました。

 

それは、実は当然のことかもしれません。

 

何しろ「目的論」を唱えたアドラーは人間に対する信念がありました。

 

それは

 

「人は変わることが出来る存在なんだ!」

 

というものです。

 

アドラーは、

 

人間は現在どんな状況の中にいても、

過去に何があったとしても、

『今、この場所から変化することが出来る存在なんだ』

と人間の可能性を信じていた

 

と言われています。

 

そんな方の考え方に沿って行動したのですから、

変わることができて当たり前なのでしょう。

 

私は「原因論」と「目的論」の是非を問いたい訳ではありません。

どちらを信じるのも、どちらの立場を取るのも個人の自由です。

 

私は自分はまだまだ成長できるということを確かめたいと思っています。

その「目的」からしたら必然的に「目的論」で人間を捉えているだけです。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

  

では、また。