「習慣化」でうまくいく〜二つの「トトノエル」の実践

何事でもうまくいくための「習慣」を身につけるために、私が日々実践していることを中心にお伝えします。

「心を整える」その3:「出来事に意味はついていない」

【「心を整える」その3:「出来事に意味はついていない」】

 

「心を整える」ということについて、順序立ててお伝えしています。

 

今日で3回目です。

 

昨日は、

 

「自分の心の状態を決めているのはあくまでも自分自身だ」

 

ということを書きました。

 

「出来事」のせいで、自分の心を乱しているのではありません。

「出来事」に対する自分の「認知」が自分の感情を生み出しています。

 

ということは、、、

 

「出来事」自体には「良い」とか「悪い」とかの意味はついていない

 

ということです。

 

こう書くと勘違いされやすいので、もう一度繰り返します。

 

「出来事には意味がついていない」と書きましたが、

 

「出来事には意味がない」と書いてはいません。

 

「意味がついていない」と「意味がない」は、それこそ意味が違います。

 

「意味がない」というのは、そのままの意味です。

 

「意味がついていない」というのは

 

「出来事には『固有の意味』がついていない」

 

ということです。

 

もう少しわかりやすく言うと

 

誰にとっても「良い」とか「悪い」という出来事はない

 

ということです。

 

これは、ちょっと考えてみたら当たり前に

誰でも経験していることのはずです。

 

例えば、

 

悪口を言われて、怒る人もいれば、怒らない人もいます。

 

怒らない人は我慢している場合もあるかもしれませんが、

全く気にしていない人も少なからずいます。

 

もし、「悪口」自体が人に「怒り」を生み出すものであれば

誰でも同じように「怒り出す」はずです。

しかし、実際にはそうはなりません。

 

つまり、心を乱すものは

 

「悪口」ではなく、

「悪口」を自分の「認知」がどう意味づけたか

 

なのです。

 

「出来事には(固有の)意味はついていない」

 

このことをしっかりと理解しておかないと、

自分の心が乱れたことを「出来事」の所為にしてしまいます。

 

「あんなことが起きたから、、、」

「あの人があんなことをしたから、、、」

「こんなことを言われたから、、、」

 

自分は「心を乱されたんだ」と感じてしまいます。

 

心が乱れると「活動の質」が落ちます。

「活動の質」が落ちるので、結果がなかなか出せません。

 

「出来事に(固有の)意味がついていない」ことをわかっていないと

こうして結果が出ないことを「誰かの所為」「何かの所為」にしてしまいます。

 

「自責」とか「他責」という言葉があります。

 

「自責」というのは、「何事も自分の責任として受け取る」

「他責」というのは、「他人など自分以外のものの所為にする」

 

ということです。

 

新入社員の研修などで、

 

「社会人になったら「自責」で考えることが大事です」

 

などと伝えられることも多いです。

 

しかし、そうは言っても

 

「すべての出来事に対して、自分の責任だ」

 

と本気で思えるでしょうか。

 

正直、わたしは難しいと思っています。

 

しかし、常に「自分の責任」があるものはあります。

 

それは

 

「自分の心の状態」(自分の「気分」「感情」「気持ち」)

 

です。

 

昨日書いたように、

 

「自分の心の状態は自分が決めている」

 

のです。

 

今まで気づいていなかったとしても、

「無意識のうち」に行われるものだとしても

 

自分の『認知』が心の状態を決めています。

 

つまり、自分の「活動の質」は「自分の責任」です。

 

自分が最高の状態で活動をしているかどうかは「自分の責任」です。

 

どのような「出来事」があっても

どのような「状況」であったとしても

 

最終的に自分の「活動の質」を決めているのは自分自身です。

 

このことをしっかりと認識しておくことが

「心を整える」ための基本です。

 

今日もここまでお読みいただきありがとうございます。

  

では、また。